いぬまき


 夏休みに夏目漱石の「こころ」と「自分が気になっている本」の2冊の読書を宿題としました。先週全員が読んだ本を紹介しあう時間を作り、私もそれに混ざりました。
 生徒に紹介したのは、様々な所でも話題の『百年の孤独』(文庫版)です。大学生のころ、背伸びして『カラマーゾフの兄弟』など数冊と同じ時期に読んだ…と記録には残っているのですが、内容は記憶に残っていません…。この機に、じっくり1月かけて読みましたので、ここにも内容を記しておきます。
 改めて書くまでもなく、これは、架空の村に住む一族の歴史が約百年分淡々と語られる、という内容の小説ですが、昔はただただ長いものを読み切ったという読後感しかありませんでした。読解の力が伸びたのか、キャラクターの造型の深さに気が付き、特にある人物に心惹かれて、その人物を追うように読むことができました。

以下、内容に関わる記述となりますので御注意・御容赦ください。
 今回私が心惹かれたのは、アウレリャノ・ブエンディア大佐です。一族の次男であり、20に分かれる章のうち13章目まで登場する、主要キャラクターといってよい人物です。
彼は、はじめは、金細工をずっとしている職人風のキャラクターでしたが、戦に目覚め、反体制派の大佐として英雄となり、子供を17人設けるなど、為政者ばりの行動をします。その後、結局は処刑を言い渡される憂き目に逢いながら、処刑を回避し、村に戻り、また金細工をしては売る生活をします。最後には金細工を一定数作っては溶かしてまた作り直し…という回帰を繰り返す暮らしを続け、一生を終えます。
そんな彼が処刑を回避して村に戻った場面で、こんな語りがあります。
「父親のお供をして氷というものを見たあの遠い日の午後から、彼が自分を幸福だと思ったのは、金の小魚の細工をしているうちに時間がどんどん過ぎていった、あの仕事場にいるときだけだった。」
歴史に名を残したのも、良くも悪くも多くの人と関わったのも、「大佐」としての彼なのですが、人生の終わり方を見ても、彼の幸せは、金細工のほうにあったようなのです。
それなりの年齢になったからなのか、今の駆け抜けるようなバタバタした日常に疲れているからなのか、上の一節がどうも心に残り、彼の登場した部分だけを抜き読みもしてみました。
非常に書き込まれた小説には、現実以上の「完成度」のようなものがあるような気がしています。どの側面を読み深めても、ああ、こうなるのだ、という自分の経験を超える現実感のようなものが感じられる。それは、思想だったり、風習だったり、風俗だったり、感情だったりしますが、今回の読書では、私は人物造型にそれを見ました。
『百年の孤独』は、非常に味わい深い、世界の名著の一冊であると、あらためておもったひと夏の読書経験でした。

 あべさんの薦めで、えるふで行っている読書会で中島敦「山月記」をとり上げました。その時にお話しした内容を、簡単にまとめます。高校の国語の授業の話です。

1 中島敦について
1909年、東京四谷に生まれる。漢学者の家系で、幼いころから漢学に親しみ、中国古典に精通する。第一高等学校、東京帝国大学国文科を経て、教職に就く。教職を辞した後、南洋庁の役職でパラオに。赴任中の1942年、「山月記」を含む短編小説『古譚』が発表され、文壇に登場した。しかし、その年の暮、持病のぜんそくの発作で33歳で死去。山月記は、没年に発表された作品である。

2 高校教材としての山月記について
高校教材としての山月記が定番教材となるまでの経緯
・中島敦の死去後、終戦となり、『中島敦全集』刊行
・直後に、昭和26年版学習指導要領が出され、その「付表・資料としての図書一覧表」に中島敦の「李陵・山月記など」が掲載された。
・「山月記」の初掲載は、『新国語・文学三年下』(二葉株式会社、1950)、次いで、三省堂などが取り上げる。
・1975年前後の改定から、半数以上(8社)の教科書に掲載されるようになる。
・1997年には、「山月記」の教科書掲載割合は、全文学教材中1位。以降、今日まで、「定番教材」となっている。
(参考:田中宏幸,坂口京子(2010)『文学の授業づくりハンドブック(第4巻)授業実践史をふまえて-中・高等学校編』渓水社)
・大体が高校2年で扱われる。木原は本年高校2年生の2つ目の単元で扱った。

3 「山月記」の内容
隴西の李徴は、博学才穎であるが、狷介・自ら恃むところすこぶる厚い。科挙に合格し官職を得るも辞し、詩家としての成功を目指す。しかし容易に成功はせず、官職に戻った後、発狂して消息不明になる。
観察御史・袁傪は、「人食い虎」と出会い、虎が隠れた叢から、かつての友・李徴の声で、自分の話を聞いて欲しいと頼まれる。李徴の声が言うには、 1年ほど前の夜半、誰かから呼ぼれ、外に出て無我夢中に駆けていくうちに虎になってしまった。しえいて、一つの願いを頼む。それは、人間でなくなってしまう前に自分の書いた詩を伝録してほしいとのことだった。李徴の詩は どれも格調高雅、意趣卓逸であったが、袁は、何か足りないと感じる。李徴はその後、即興の詩も伝える。 李徴はなぜ虎になってしまったのかを考えていた。過去を思い返せば、自分自身の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」がその原因ではないかと考えついたという。別れ際、李徴は故郷にいる妻子の面倒を見て欲しいと袁傪に頼んだ。そして、家族の事を先に頼むべきなのに、詩を優先した自分の考え方が自身を虎にしたと自嘲する。
袁傪は叢にいる李徴に別れを告げ、出発した。丘の上についた時、振り返り草地を眺めた。虎は白く 光を失った月を仰いで二声三声吠えたかと思うと、また叢に戻り、再びその姿を見せることはなかった

4 本年度行った授業の流れ
原作「人虎伝」や、他の中島作品との読み合わせ、同じくプライドの高い人物の出てくる作品との読み合わせなど、いろいろな授業アイデアがありますが、今回は文章内をグループで読み深めることとしました。まず、冒頭を暗誦まで課しつつ何度も読み、リズムを楽しみつつ、設定を理解する。その後、疑問ごとにグループに分かれて、「李徴が虎になった理由」をまとめ、発表する。という流れとなりました。授業のプリントから抜き書きしてみます。
①音読、暗唱、注釈つけ(2時間、基本ペアワーク)
 1 音読します。平家物語に近い漢文調の文体を楽しもう。
 2 暗唱します。覚えて読むことで内容が染みることを知って欲しい。→録音を提出
 3 注釈をつけます。難しい設定は、調べて読みましょう。
②主人公の運命について考察する。(5時間、グループワーク→発表)
 1 まず、二段落以降を通読し、教員の内容整理を聞きます。
 2 探究したい疑問を書いて、整理します。→アンケートフォームで収集
 3 グループに分かれて、木原の解説動画を見て内容を整理した後、探究課題を発表します。
→掲示板アプリPadletに書き込み。
疑問を整理し、「課題」を決め、さらに課題解決方法の希望を採って、グループ分けをしました。

課題:人格、性情において、李徴に欠けるものは何か?
課題に対し、感想を整理し、大体文章の書かれた順に、7つの切り口を並べました。どれかを選びましょう
 1 李徴の他者との距離感   難易度★★☆☆☆(第一、第三段落の他者との関りの記述)
 2 詩の評価と即興の詩    難易度★★★☆☆(第四段落の詩に関する語りや即興詩)
 3 自己分析(打消し)批判  難易度★★★★★(第五段落の語りの否定語を批判的に読む)
 4 自己分析(撞着技法)肯定 難易度★★★★☆(第五段落の「尊大な羞恥心と臆病な自尊」
 5 自己分析(撞着技法)批判 難易度★★★★★ 心」を素直に読む、批判的に読む)
 6 ものを頼む順番      難易度★★☆☆☆(第六段落の妻子についての語り)
 7 涙の種類とその理由    難易度★★★☆☆(第二~第七段落の4つの涙の表現、しのび泣き/毛皮の濡れた/慟哭/悲泣)

③最後に、第七段落の最終部分を音読し、まとめを書いてください。
A「一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た」初めて虎の姿を見る場面に共感。
B「虎は、既に白く光を失った月を仰いで」月の象徴性(月=人李徴)人としての李徴は失われていく感じ。
C「二声三声咆哮したかと思うと」虎としての発声。人としての李徴はもういない感じ。
D「もとの叢に躍り入って、再びその姿を見なかった」「叢」という怪異の境界線を越え、日常に帰る。

5 生徒のまとめ
 いくつか抜粋します。李徴を批判するような発表の流れになったので、結構辛辣ですが、現在の子供たちの、認識が見えるような気がします。努力や協調性に関する考え方などが強固だな、と思います。

 「飢え凍えようとする妻子のことよりも己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ」から李徴が自分自身を自己中心的思考だと理解しているが、プライドが高く、泣いてばかりで直そうとしない所が欠点であり、欠けているところだと考えた。私は言い訳ばかり諦めてばかりで後々後悔することがかなりあり、李徴の性格と重なる所が多かったと思った。そのため、山月記の読み取りは深く理解することが出来たなと思い、李徴に欠けていたことについて考察することも積極的に取り組むことが出来たと感じた。
 李徴に欠けているものは、やっぱり自分の事しか結局は考えていなかったり、自分1人じゃ出来ないことだってあるのにプライドが高く他の人を頼らなかったり人と協調してこなかったとかだと思う。虎になって少しは反省したかなと思ったのに結局は、自分は才能だけはあって努力をしてこなかったから詩人としてうまくいかなかったと何も変わってないなと思ったし、袁傪にめっちゃ頼ってるけど実は見下してるのかなとも思った。私は、自尊心は必要だけど自分の出来ないことは認めて頼ること、頭が良くても人と協調して行く方が生きていきやすいのかなと思った。最初から虎の伏線があったので2回目から読むとより深く読むことができたと思った。
 主要人物が2人ほどしかいなかったのに、物語全体を読み終えて、様々な人間関係などの想像ができるほどの文章だったと感じた。李徴がもっと人と関わりを持つような性格だったら虎にはならずに済んだのだろうかと思った。また、李徴が峻峭な性格になったのは何が原因だったのか、小さい頃の環境などが関係してそのようになってしまったのかと言う疑問が生まれた。最後の段落では、③の二声三声〜のところに注目した。李徴の咆哮はもう人間には戻れないという覚悟や友と別れる悲泣の意味などがあったのかなと私は考えた。李徴に1番欠けていたものは周りに頼らないということだと自分は思います。
 もし李徴が周りを下に見ず、みんなを敬い行動していたら、自分の夢は叶っていたかもしれないし、虎にもなっていなかったのかもしれないからです。
 自分も本当に辛いって思った時とかに人から頼られることはたくさんあるけど、自分から周りに頼るということがいつもできず、自分だけで解決してしまうことが多くあるので、その部分では李徴と同じだなと思いました。ただこの山月記を読んで人に頼る大切さをより理解できました。
 全体を振り返って、初めてこれを読んだ時は意味がわからなかったけど読み進めていくにつれて物事の意味なのがわかったり作者の意図がわかるようになってきました。リズムと言われると少し難しいけど例えば、ただ「泣いている」と書けばいいところを「非泣の声」と言ったりの言い換えがとてもこの内容にあっていたりと、いいなと思う部分がたくさんありました。

4月の末に、根津美術館の国宝「燕子花図屏風」を見に行きました。 国語教員としては、「唐衣きつつなれにしつましあれば」の挿絵として拝見することが多い名画です。ベタ塗りの力強さと、構図の巧みさに圧倒されます。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145427

庭園の燕子花が咲く季節に合わせて毎年展示されているもので、今年は本物の花も絵画に負けない見事な咲きぶりでした。

さて、4、5月は、生徒と一緒に中島敦の「山月記」を読ました。詩人を志した主人公李徴が虎になってしまい、自分の頼みや考えを語る短編です。彼が虎になった理由、あるいは詩人になれなかった理由について、めいめいに考え、意見を交わす授業をしました。

そんな中で私自身が出会った本を少し紹介します。

篠田知和基『世界動物神話』八坂書房 目次

第1部 自然の脅威(熊;猪;獅子;虎;鹿)
第2部 始祖伝承(蛇;白鳥と烏;狼)
第3部 トリックスター(猿;狐;兎)
第4部 家畜のいる世界(馬;牛;羊;犬;猫)
第5部 身辺の小動物(蛙;鼠;亀)

筆者の頭の中を映すように、動物(神獣、異類)の各国の神話でのエピソードが紹介され、それぞれの共通点や差異が次々と語られていきます。その博覧強記にただただ驚かされる書物でした。

特に「日本の虎」について何点か抜き書きしておきます。

・日本には虎も獅子もいないが、獅子が全くの空想においてしか認識されないのに対し、虎は現実感を持って語られる。中国や朝鮮の人々とはかなり接触があり、虎を現実の動物として目視した人の報告も聞くことができたためだろう。
・ただ異類婚姻譚としては、虎女房、虎婿の話はない。山の神としても虎が想像される事はない。虎を退治した。英雄が王になるという話もない。…虎は神の使いとして表される例もない。王権の象徴にもならない。

日本の神話や怪異譚の中に虎は出てこない。それは、単に日本に虎がいないから。 どんな話があるかではなく、「ない」ことを指摘するのはなかなか難しいことだと思いますが、それを断言してくれたことで、発見がありました。

僕らは虎ぐらいならばよく知っていると思いがちです。 けれども、結局虎を見る機会といえば、映像を通して、あるいは動物園やサーカスくらいしかなく、イメージも間接的な情報から解釈を繰り返した結果に過ぎないのかもしれない。

虎に限らず、そういうものやことがどれだけ多いか。燕子花の花も、現実の花よりも、頭屏風の絵を見る機会の方が多かったかもしれない。意識してじっと本物を見たのは4月の小春日和の日が本当に久しぶりだったかもしれない。

そう考えてみれば、現実に存在するものに対してさえも、間接的に情報を得てお腹がいっぱいになった気分になっているのかもしれない。それで良いのだろうか。

「ない」ことをめぐって日常を振り返ったひとときでした。 なお、たまたま、「山月記」で自分の議論学の先生がまさにこの否定(「ない」)に注目した論文を書いているので、ご興味があれば…。 https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/4727

4月10日の読売新聞のコラム欄に「オオイヌノフグリ」の話題が出ました。
一方でその「名づけ」のひどさに触れる一方で、その可愛らしい姿を詠んだ俳句数編が紹介されるという内容。生徒に示しましたが、「そんなの教材にしてセクハラになるなよ」と同僚に叱られました。

さて、「変な名づけ」をされてしまった植物は他にもあるの?と生徒に問われて次の本を手に取りました。

藤井義晴(2019)『ヘンな名前の植物』化学同人

目次をあげてみます。
(詳細 出版社HP https://www.kagakudojin.co.jp/book/b383512.html
第1章 ダーティー・ネーム&ビューティー・ネーム……きたない名前、きれいな名前
第2章 セクシー・ネーム……生殖器官、乳房、乳と関係する名前
第3章 ネガティブ・ネーム……罵倒、虐待、ドロボウ、貧乏に関係する名前
第4章 ゴシック・ネーム……死や不幸を連想する名前
第5章 デンジャラス・ネーム……毒がつく植物、けがの危険がある植物
第6章 ダブル・ネーム……動物の名前がついた植物、ほかの植物の名前がついた植物
第7章 ハッピー・ネーム……めでたい名前
第8章 番外編……一文字の名前、意味不明な名前

オオイヌノフグリはご存じのとおり第二章「セクシー・ネーム」に属しますが、「なるほど」、と思わされたものをいくつかあげてみます。

オナモミ 「ひっつき虫」と呼んで投げ合った子供のころ。「ムシなの、やだ」と近所の女の子に拒絶され、「オナモミっていうかっこいい名前の植物だよ」と返した少年時代の私。由来は古語で、衣服にくっつける遊びをすることから、「「もむな」という意味からきているとの説があ」るそうです。なんだ、「ひっつき虫」となんら意味が変わらないではないか、と30年越しのおどろき。

ママコノシリヌグイ ずっと気になっていました。美談だと思っていました。「継子の下の世話までしてあげる」というような。なんと、昔の尻を拭くために使われていた縄に「トゲトゲあったら痛いだろうなと考えた」とは。環境省のHPにまで、「継子に対して、このトゲのある茎で尻を拭くことから」環境省のHPにまでこの説明があって…。この名前を残しておいて良いのでしょうか。昨今。。

アシ 「ヨシ」とも言いますね。パスカルの「人間は考える葦」という邦訳はあまりに人口に膾炙していて、どうも「アシ」と呼びたくなりますが、「ヨシ」と呼ぶのは、発音の地域差や、音便によるのかな、と思っていたら、まさかのシンプルな考察。「アシは「悪し」に聞こえるのでヨシと言い換えた」とは…。

何気なく知っていたつもりの植物の名づけにも、様々な誤解があることがわかり、楽しい時間でした。

是非ご一読を!植物だけでなく、様々な名づけの意味論を考えてみたくなった春の日でした。
庭にはシバザクラが綺麗に咲いています。

いぬまき

朽木祥の『かはたれ』をえるふの読書会で読みました。
2005年刊ながら、多く版重ねている名著です。それが頷ける心理描写・展開の巧みさ・表現の美しさをもつ作品でした。
人間社会の様々なものに驚き、読者に人間社会を異化を促してくれる河童の八寸が、人間の少女、麻(あさ)と交流するお話です。
内容の詳細は控えますが、物語の軸になっている麻の悩みに、考えることがありました。

図工の時間にフリージアを真っ青に塗った麻は、それを母を亡くしたことと結びつけた教員に心配され、戸惑い、次のような問いに悩まされます。
「そもそも花って本当にきれいなの?それとも、これがきれいな花だった教えられたから、きれいだと思うのかな。」
この悩みが少しだけほどけることで物語はクライマックスを迎えます。これまでの様々な出会いや物語が伏線のように回収されて、麻の考えが変わっていくシーンは朽木の語りの見事さを味わえるものですが、物語の出した答えから少し離れて、二つ、思ったことを書き留めます。

一つは、この問いを生み出してしまった関わりについて。私は教員の仕事をしているのですが、ここに出てくる先生と同じ行動をしてしまうだろうな、と思い当たります。生徒の変化を見ると、つい「深い悩み」と結びつけてしまう。そして、とりあえず話を聞いてしまいたくなる、追求してしまいたくなる。でも、もしかすると、ここで、「大丈夫?」「相談してね。」などと声をかけずに、「青いフリージア、素敵だね」と心から伝えられたら、麻の悩みを悪い方向に向けずに済んだかもしれない。悩みを軽くする手伝いができたかもしれない。ただただ素直に麻と向き合っていただけの八寸のようにありたい。そんなふうに思いました。

もう一つは、この問いの答えの出し方について。極論すれば「空気を読む」、「価値観の一元化」みたいな問題だけれども、手放しで「自分の思う「きれい」を貫け」などと答えても、無責任だと感じる問いです。多分、大切なのは「自分らしく」という答えではなく、一人ひとりが、答えにたどり着くまでにどこまで自分と社会の関係を釣り合わせられるか。
 物語の中で麻は、『枕草子』の類集章段のようにさまざまな「きれいなもの」をブレーンストーミングし、自分なりの答えを探し、自分なりの解決を見つけます。方法は無数にあるでしょうが、このような過程や場を作ることこそ、価値の悩みに応じることであろうと、覚えておきたいと思います(結局教員の話になっちゃった…)。

大雪でした。

大涌谷を目指すも、ロープウェイは運休。せっかく行った記念にと、大雪の中ケーブルカーで早雲山まで登りました。

雪景色の山々は美しいものの、呑気なことも言っていられない光景がいろいろにありました。ひとつ、驚く仕事について。

強羅から早雲まで、5つあるケーブルカーの駅のそれぞれに雪かきをする駅員さん、やボランティアの方?がおり、停車をするたびに電車を歩道橋代わりに突っ切って、逆側のホームに移り、除雪スコップで雪をかく。

行きも帰りも同じ人たちが同じ動きをしていました。15分間隔で来る電車を利用して、1日続けてくれているのでしょうか。

観光客のため?これを利用する生活圏の人のため?朝方だったからこの時間帯だけ除雪すれば後は積もらないとの知恵があるのかもしれません。でも、運行時間の7、8時間続けるのであれば並の労力ではありません。

自分も東日本大震災の折にはボランティアに出ましたが、援助という明確な目的がありました。でもこれは違う。毎年毎日のように起こる降雪に時間を捧げる。

雪国の、なのか、観光地の、なのかわからない営みに考えさせられたひと時でした。

家族で箱根に行きました。

大雪でした。

大涌谷を目指すも、ロープウェイは運休。せっかく行った記念にと、大雪の中ケーブルカーで早雲山まで登りました。

雪景色の山々は美しいものの、呑気なことも言っていられない光景がいろいろにありました。ひとつ、驚く仕事について。

強羅から早雲まで、5つあるケーブルカーの駅のそれぞれに雪かきをする駅員さん、やボランティアの方?がおり、停車をするたびに電車を歩道橋代わりに突っ切って、逆側のホームに移り、除雪スコップで雪をかく。

行きも帰りも同じ人たちが同じ動きをしていました。15分間隔で来る電車を利用して、1日続けてくれているのでしょうか。

観光客のため?これを利用する生活圏の人のため?朝方だったからこの時間帯だけ除雪すれば後は積もらないとの知恵があるのかもしれません。でも、運行時間の7、8時間続けるのであれば並の労力ではありません。

自分も東日本大震災の折にはボランティアに出ましたが、援助という明確な目的がありました。でもこれは違う。毎年毎日のように起こる降雪に時間を捧げる。

雪国の、なのか、観光地の、なのかわからない営みに考えさせられたひと時でした。

鳥は喋れるのだろうか ?

前回の記事で書いた予言鳥「伊勢の奇鳥」が喋っていたため、そんな疑問を持ちました。

現実の鳥の話として、そこに「言語」や「会話」が成立しているのか?
それをぼーっと考えていたところ、昨年夏に気になっていた本を友人から紹介してもらいました。

山極寿一・鈴木俊貴『動物たちは何をしゃべっているのか』集英社、2023年
大塚健太 作・出口かずみ 絵・鈴木俊貴 監修(2023)『にんじゃシジュウカラのすけ』世界文化社、2023年

 山極さんは、ゴリラの研究にかかわる本などを読んだことがありました。(お気に入りは、小川洋子との対談『ゴリラの森、言葉の森』)鈴木さんは、鳥の言語を研究テーマにしている若手の学者で、絵本『にんじゃシジュウカラのすけ』の監修もしているということです。この方のことは初めて知りましたが、今回の焦点は鈴木さんです。 
 『動物たちは何をしゃべっているのか』では、動物の言葉を研究してきた2人が語り合っていますが、僕の疑問から次の箇所が気になりました。

①シジュウカラの鳴き声には文法がある。

鈴木さんは、自身の研究を対談の中で紹介しています。「文法」に関する部分をまとめると、次のようです。

1)シジュウカラは2つの意味を持つ鳴き声の組み合わせを発していることがある。
 「ピーツピ(危ない)・ヂヂヂヂ(集まれ)」⇒行動が起こる。
2)これが「文法」かを確認するため、順番を入れ替えた音声を聞かせる実験をした。
 「ヂヂヂヂ(集まれ)・ピーツピ(危ない)」⇒行動が起きない。
3)混群(シジュウカラとコガラの混じった群れ)に対しても合成音声で実験をした。
 「ピーツピ(危ない)・ディーディー(コガラの集まれ)」⇒行動が起きる。
4)併合(二つの語が合成されて認識されているか)を試す実験をした。
 スピーカーA「ピーツピ(危ない)」→スピーカーB「ヂヂヂヂ(集まれ)」と音を出す  ⇒行動が起きない。

 かなり簡略化して実験を紹介していますが、「ピーツピ」と「ヂヂヂヂ」を順番に組み合わせることで一つの行動を指す発話をしている、すなわち文法のようなものが存在していること、一緒に暮らす他の鳥の言葉も文法に当てはめれば理解できていることが明らかになったことが紹介されています。

 文法的に言葉が組み合わせられること、そして我々が例えば外来語を日本語に組み合わせて使っているようなことを鳥たちがしている…。ただの擬人化ではないと、人間の共通点を知りました。

さらに、

②鳥と人間が会話をする場合がある。

かなり衝撃的でした。引用して紹介します。

鈴木 …モザンビークに住むノドグロミツオシエという鳥なんですが、彼らは人とコミュニケーションをとりながら、エサであるハチの巣を手に入れるんです。
(中略)
山極 しかし、どうやって?
鈴木 声です。ミツオシエは、ハチの巣を見つけると人間のところまでやってきて「ギギギギギ」と鳴いて、ハチの巣まで誘導するんですね。すると人は焚火をして巣を手に入れて、そのおこぼれをミツオシエにあげるんです。人間の側も、ミオシエを見失ってしまったら「ブルルルル」という独特の声を出してミツオシエを呼びます。人間と鳥で、双方向にコミュニケーションができているんですね。(p.098)

③鳥の言葉の研究はこれから

鈴木さんは、絵本『にんじゃシジュウカラのすけ』のあとがきを、監修者としてこう結んでいます。

小鳥たちのすごいところは、別の種類の鳥の音葉もきちんと理解できること。鳴き声のひびきは違っていても、お互いに言葉を学びあい、協力して暮らしています。歩し前まで、鳥に言葉があるなんで誰も信じていませんでした。小鳥の忍者が見つかる日もそう遠くないかもしれません。

はじめの問に答えを出すと「喋れる」でした。

それどころか、鳥たちは、人間ともしゃべれる可能性がある。というか、実際に喋っている文化がある。僕たちが「異文化交流」と呼んで習得を目指す外国語は、人間の言葉だけである必要はないのかもしれない。鳥や動物の側にしっかり向き合えば、いくつかの言葉を覚えて、モザンビークの人たちのように、当たり前に共同作業ができるかもしれない。
そのように考えさせられる読書経験でした。絵本だけを読みになった方は、ぜひ今回ご紹介した書籍も読んでみて欲しいです。

(いぬまき)R6.2.6


ドードー鳥の本を読んだあと、絶滅種や絶滅危惧種の動物たちについて調べたり考えたりしていた。

そのうち、はじめから想像の中にしかいなかった生き物への興味が湧いてきた。 いろいろ読んでいるうちに、 『予言獣大図鑑』(文学通信、2013年12月)という書物が出版された。日本の予言獣に絞って編まれた図鑑で、瓦版などの文献から多くの情報を得ている。絵も素朴でよい。

この本の第二部で、次のように分類がなされている。
第一「神社姫・姫魚」系
第二「件(クダン)」系
第三「くたべ」系
第四「奇鳥」系
第五「双頭烏」系
第六「異鳥」系
第七「アマビコ」系
第八「山童」系
第九「蜑人」系
第十「きたいの童子」系
第十一「豊後国に出で候もの」系
第十二 その他

怪談で有名な「くだん」や、コロナ禍を予言したと話題になった「アマビコ」など、有名どころを拾いながらも、項目が他の妖怪や幻獣図鑑と大分違う。

ドードー鳥を出発とした僕にとっては、3つも「鳥」のカテゴリがあるのが嬉しい。星野哲朗が追ったアメリカ大陸のワタリガラスの神話然り、人は、なぜか鳥たちに神秘的なものを感じてきたのかもしれない。

出典をいくつか読み、「伊勢の奇鳥」に興味を惹かれた。『(天保見聞)名府太平鑑』

http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001802

で、原書がみられる(該当は91-92頁)。

まず、インパクトあるのは見た目。様々な鳥の継ぎ合わせである。鶏をベースに、ひよこのままにも見える頭部に孔雀の尾羽がついている。金色らしい。飛べない鳥の集合体みたいな趣である。

次に、物語。 天保3年4月1日の鶏の刻頃、伊勢大神宮の社殿の屋根に現れ「りんりん」と鳴いた。 その夜、神主らの夢にも現れ「今年の9月12日の夜に東南のに悪星が出る。この星を見た者は直ちに震え上がって死ぬ。この災難を逃れたければ、自分の姿を描いて貼り、毎月12日に酒を供えよ。我は大神宮の使いなり。」といい飛び去ったという。(見るからに飛べなそうなのに飛べるらしい。)

出典は、民衆から蒐集した話のようだ。天保といえば、大雨をきっかけとし、大塩平八郎の乱につながる天保の飢饉が思い浮かぶ。 彗星の記録は見つからなかったが、日本が苦難の中にあった時であることは確かだろう。苦難の時に、神秘的な生き物や物語に理由や救いを求めたりするのは、いつの時代も変わらないのであろう。

それを伝える予言獣が、何故か鳥であり、そしてドードー同様、飛べない(感じの)鳥であるあたりが何か引っかかる(奇鳥は飛んだけど)。 もしかしたら、僕たちは、神秘的である鳥に憧れながら、一方で「飛べない」あたりに、人と同じ目線でいてくれる魅力を感じているのかもしれない。

川端裕人さんの新刊『ドードー鳥と孤独鳥』を読書会で読みました。
主人公・タマキ(科学ライター)と、音信不通だった幼馴染・ケイナ(研究者)が、表題の絶滅した鳥に人生を賭ける物語です。
科学論文や生物学の【ホンモノ】の理論を下敷きに、近い未来に起きるかもしれない発見や事件を【フィクション】として描いています。
生物学の素養がない私は、「絶滅種をめぐるSF」、「成長小説」として胸躍らせながら読みました。
教育現場ではSDGsが標榜されつづけ、絶滅危惧種はまだしも、絶滅種については触れられにくい感じです。が、人間の愚行で地球を去った頭の大きい飛べないハトは、『アリス』を持ち出すまでもなく、不思議と私たちを惹きつけます。それは、デフォルメされた外見からでしょうか。それとも、絶滅種に対するノスタルジーのようなものがそうさせるのでしょうか。
生き物との暮らし方について、生命倫理について、基礎科学・虚学について考えさせられる一編です。
筆者は、二年前に自身のドードー鳥をめぐる探求をまとめたノンフィクション『ドードーをめぐる堂々巡り』を出版しており、これと比べることでどこがフィクションなのか?筆者の伝えたいことが見えるのではないかと思います。

以下、多分にネタバレを含みますが、二冊を比べたり、調べたりしながら、少し細かく見てみます。

【ホンモノ】
・論文「ドードーが日本に来ていた」The dodo, the deer and a 1647 voyage to Japan,Ria Winters, Julian P Hume,Historical Biology 27 (2), 258-264, 2015(『堂々巡り』第一章)
・ドードー鳥の全ゲノム解析(カリフォルニア大学 2016)

【フィクション】
・百々谷、つくも谷(作中では南房総。モデルは三浦半島とされる)
・日本での孤独鳥頭部の骨の発見
・孤独鳥のゲノム解析
・ケイナのキメラ個体育成
・スピーシーズ・リバイバル財団の活動と活動再開

『ドードー鳥と孤独鳥』の物語は、幼いタマキとケイナが百々谷で育つシーンに始まり、社会に出た二人が絶滅種を縁に再開し、「日本の孤独鳥頭部の発見」と、それを用いたケイナの孤独鳥の脱絶滅(キメラ個体の生育)へと収斂し、二人が百々谷で暮らす場面で幕を閉じます。このある種の「行きて帰りし物語」(二人の成長物語)の構造の中に、孤独鳥=ドードー鳥発見のロマンを描くことに成功しているように感じます。
『ドードーをめぐる堂々めぐり』で書かれている筆者の夢「日本のドードー発見」。それが、双方が絡み合ったクライマックスで、頭部が発見されるという展開により、筆者の「夢」が美しく表現され、我々にも共感を生みます。
一方で、シカゴ郊外での研究者の議論や、その後のタマキとケイナとの対話、クライマックスでのタマキとケイナとのやりとりなどに、近年の生物学的な知識や生命倫理的な論点が含まれており、「科学読み物」としても成立し、厚みとなっています。

ぜひ多くのYAに読んでもらいたい物語です。

ハンドルネーム 「いぬまき」(高校教員)

そこは、どこかの空き地なのだ。雑草が適当にのび、地肌は見えない。別に囲いもさくもないから、空き地のすぐわきは道路で、その道路はアスファルトで舗装してある。そして、道路には、電柱が一本たっており、その電柱にはセミがとまっている。もちろん、セミはうるさいほどに鳴いている。これは何の風景なのだろうか。
1987年の東大入試に採られて以来、我々の業界で有名になった新井素子の「夏の終わり」の一節である。新井は、現実の記憶ではないと話を続ける。
これとは全く違うのだけれども、毎年今頃の季節になると、肌寒いような切なさとともに頭に浮かぶ風景がある。
薄暗い時間帯。細長い沼地が見える。後ろには雑木林が広がり、落ち葉を踏みながら分け入って少し歩くと、正午過ぎの陽だまりのような広場に、いぬまきの大樹が3本そびえ立っている。
これはどうも、6年間通った通学路の断片と、何度も読み返したシートン動物記やファーブル昆虫記の描写が混じった風景であるらしい。私にとっては、ここに読書によって作られたイメージが含まれるのが大事である。
特にここ4、5年、子供たちが紹介しあう本を見ると、読み心地は良いが、心にイメージを残すほどの描写を備えたものが減ってきているように思う。古典的な名作を読めと推薦図書を並べる気もないが、心に絡みつくほどのイメージを喚起するようなテキストを、もっと子供たちの読書生活の中に入れられるようにしたい。
そんな気持ちで、自分が読み、紹介した本や、生徒とのことについて、吶々と書いていければと思います。
この出発点を覚えていられるように、ハンドルネームは「いぬまき」にします。よろしくお願いします。

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