いぬまき


4月10日の読売新聞のコラム欄に「オオイヌノフグリ」の話題が出ました。
一方でその「名づけ」のひどさに触れる一方で、その可愛らしい姿を詠んだ俳句数編が紹介されるという内容。生徒に示しましたが、「そんなの教材にしてセクハラになるなよ」と同僚に叱られました。

さて、「変な名づけ」をされてしまった植物は他にもあるの?と生徒に問われて次の本を手に取りました。

藤井義晴(2019)『ヘンな名前の植物』化学同人

目次をあげてみます。
(詳細 出版社HP https://www.kagakudojin.co.jp/book/b383512.html
第1章 ダーティー・ネーム&ビューティー・ネーム……きたない名前、きれいな名前
第2章 セクシー・ネーム……生殖器官、乳房、乳と関係する名前
第3章 ネガティブ・ネーム……罵倒、虐待、ドロボウ、貧乏に関係する名前
第4章 ゴシック・ネーム……死や不幸を連想する名前
第5章 デンジャラス・ネーム……毒がつく植物、けがの危険がある植物
第6章 ダブル・ネーム……動物の名前がついた植物、ほかの植物の名前がついた植物
第7章 ハッピー・ネーム……めでたい名前
第8章 番外編……一文字の名前、意味不明な名前

オオイヌノフグリはご存じのとおり第二章「セクシー・ネーム」に属しますが、「なるほど」、と思わされたものをいくつかあげてみます。

オナモミ 「ひっつき虫」と呼んで投げ合った子供のころ。「ムシなの、やだ」と近所の女の子に拒絶され、「オナモミっていうかっこいい名前の植物だよ」と返した少年時代の私。由来は古語で、衣服にくっつける遊びをすることから、「「もむな」という意味からきているとの説があ」るそうです。なんだ、「ひっつき虫」となんら意味が変わらないではないか、と30年越しのおどろき。

ママコノシリヌグイ ずっと気になっていました。美談だと思っていました。「継子の下の世話までしてあげる」というような。なんと、昔の尻を拭くために使われていた縄に「トゲトゲあったら痛いだろうなと考えた」とは。環境省のHPにまで、「継子に対して、このトゲのある茎で尻を拭くことから」環境省のHPにまでこの説明があって…。この名前を残しておいて良いのでしょうか。昨今。。

アシ 「ヨシ」とも言いますね。パスカルの「人間は考える葦」という邦訳はあまりに人口に膾炙していて、どうも「アシ」と呼びたくなりますが、「ヨシ」と呼ぶのは、発音の地域差や、音便によるのかな、と思っていたら、まさかのシンプルな考察。「アシは「悪し」に聞こえるのでヨシと言い換えた」とは…。

何気なく知っていたつもりの植物の名づけにも、様々な誤解があることがわかり、楽しい時間でした。

是非ご一読を!植物だけでなく、様々な名づけの意味論を考えてみたくなった春の日でした。
庭にはシバザクラが綺麗に咲いています。

いぬまき

朽木祥の『かはたれ』をえるふの読書会で読みました。
2005年刊ながら、多く版重ねている名著です。それが頷ける心理描写・展開の巧みさ・表現の美しさをもつ作品でした。
人間社会の様々なものに驚き、読者に人間社会を異化を促してくれる河童の八寸が、人間の少女、麻(あさ)と交流するお話です。
内容の詳細は控えますが、物語の軸になっている麻の悩みに、考えることがありました。

図工の時間にフリージアを真っ青に塗った麻は、それを母を亡くしたことと結びつけた教員に心配され、戸惑い、次のような問いに悩まされます。
「そもそも花って本当にきれいなの?それとも、これがきれいな花だった教えられたから、きれいだと思うのかな。」
この悩みが少しだけほどけることで物語はクライマックスを迎えます。これまでの様々な出会いや物語が伏線のように回収されて、麻の考えが変わっていくシーンは朽木の語りの見事さを味わえるものですが、物語の出した答えから少し離れて、二つ、思ったことを書き留めます。

一つは、この問いを生み出してしまった関わりについて。私は教員の仕事をしているのですが、ここに出てくる先生と同じ行動をしてしまうだろうな、と思い当たります。生徒の変化を見ると、つい「深い悩み」と結びつけてしまう。そして、とりあえず話を聞いてしまいたくなる、追求してしまいたくなる。でも、もしかすると、ここで、「大丈夫?」「相談してね。」などと声をかけずに、「青いフリージア、素敵だね」と心から伝えられたら、麻の悩みを悪い方向に向けずに済んだかもしれない。悩みを軽くする手伝いができたかもしれない。ただただ素直に麻と向き合っていただけの八寸のようにありたい。そんなふうに思いました。

もう一つは、この問いの答えの出し方について。極論すれば「空気を読む」、「価値観の一元化」みたいな問題だけれども、手放しで「自分の思う「きれい」を貫け」などと答えても、無責任だと感じる問いです。多分、大切なのは「自分らしく」という答えではなく、一人ひとりが、答えにたどり着くまでにどこまで自分と社会の関係を釣り合わせられるか。
 物語の中で麻は、『枕草子』の類集章段のようにさまざまな「きれいなもの」をブレーンストーミングし、自分なりの答えを探し、自分なりの解決を見つけます。方法は無数にあるでしょうが、このような過程や場を作ることこそ、価値の悩みに応じることであろうと、覚えておきたいと思います(結局教員の話になっちゃった…)。

大雪でした。

大涌谷を目指すも、ロープウェイは運休。せっかく行った記念にと、大雪の中ケーブルカーで早雲山まで登りました。

雪景色の山々は美しいものの、呑気なことも言っていられない光景がいろいろにありました。ひとつ、驚く仕事について。

強羅から早雲まで、5つあるケーブルカーの駅のそれぞれに雪かきをする駅員さん、やボランティアの方?がおり、停車をするたびに電車を歩道橋代わりに突っ切って、逆側のホームに移り、除雪スコップで雪をかく。

行きも帰りも同じ人たちが同じ動きをしていました。15分間隔で来る電車を利用して、1日続けてくれているのでしょうか。

観光客のため?これを利用する生活圏の人のため?朝方だったからこの時間帯だけ除雪すれば後は積もらないとの知恵があるのかもしれません。でも、運行時間の7、8時間続けるのであれば並の労力ではありません。

自分も東日本大震災の折にはボランティアに出ましたが、援助という明確な目的がありました。でもこれは違う。毎年毎日のように起こる降雪に時間を捧げる。

雪国の、なのか、観光地の、なのかわからない営みに考えさせられたひと時でした。

家族で箱根に行きました。

大雪でした。

大涌谷を目指すも、ロープウェイは運休。せっかく行った記念にと、大雪の中ケーブルカーで早雲山まで登りました。

雪景色の山々は美しいものの、呑気なことも言っていられない光景がいろいろにありました。ひとつ、驚く仕事について。

強羅から早雲まで、5つあるケーブルカーの駅のそれぞれに雪かきをする駅員さん、やボランティアの方?がおり、停車をするたびに電車を歩道橋代わりに突っ切って、逆側のホームに移り、除雪スコップで雪をかく。

行きも帰りも同じ人たちが同じ動きをしていました。15分間隔で来る電車を利用して、1日続けてくれているのでしょうか。

観光客のため?これを利用する生活圏の人のため?朝方だったからこの時間帯だけ除雪すれば後は積もらないとの知恵があるのかもしれません。でも、運行時間の7、8時間続けるのであれば並の労力ではありません。

自分も東日本大震災の折にはボランティアに出ましたが、援助という明確な目的がありました。でもこれは違う。毎年毎日のように起こる降雪に時間を捧げる。

雪国の、なのか、観光地の、なのかわからない営みに考えさせられたひと時でした。

鳥は喋れるのだろうか ?

前回の記事で書いた予言鳥「伊勢の奇鳥」が喋っていたため、そんな疑問を持ちました。

現実の鳥の話として、そこに「言語」や「会話」が成立しているのか?
それをぼーっと考えていたところ、昨年夏に気になっていた本を友人から紹介してもらいました。

山極寿一・鈴木俊貴『動物たちは何をしゃべっているのか』集英社、2023年
大塚健太 作・出口かずみ 絵・鈴木俊貴 監修(2023)『にんじゃシジュウカラのすけ』世界文化社、2023年

 山極さんは、ゴリラの研究にかかわる本などを読んだことがありました。(お気に入りは、小川洋子との対談『ゴリラの森、言葉の森』)鈴木さんは、鳥の言語を研究テーマにしている若手の学者で、絵本『にんじゃシジュウカラのすけ』の監修もしているということです。この方のことは初めて知りましたが、今回の焦点は鈴木さんです。 
 『動物たちは何をしゃべっているのか』では、動物の言葉を研究してきた2人が語り合っていますが、僕の疑問から次の箇所が気になりました。

①シジュウカラの鳴き声には文法がある。

鈴木さんは、自身の研究を対談の中で紹介しています。「文法」に関する部分をまとめると、次のようです。

1)シジュウカラは2つの意味を持つ鳴き声の組み合わせを発していることがある。
 「ピーツピ(危ない)・ヂヂヂヂ(集まれ)」⇒行動が起こる。
2)これが「文法」かを確認するため、順番を入れ替えた音声を聞かせる実験をした。
 「ヂヂヂヂ(集まれ)・ピーツピ(危ない)」⇒行動が起きない。
3)混群(シジュウカラとコガラの混じった群れ)に対しても合成音声で実験をした。
 「ピーツピ(危ない)・ディーディー(コガラの集まれ)」⇒行動が起きる。
4)併合(二つの語が合成されて認識されているか)を試す実験をした。
 スピーカーA「ピーツピ(危ない)」→スピーカーB「ヂヂヂヂ(集まれ)」と音を出す  ⇒行動が起きない。

 かなり簡略化して実験を紹介していますが、「ピーツピ」と「ヂヂヂヂ」を順番に組み合わせることで一つの行動を指す発話をしている、すなわち文法のようなものが存在していること、一緒に暮らす他の鳥の言葉も文法に当てはめれば理解できていることが明らかになったことが紹介されています。

 文法的に言葉が組み合わせられること、そして我々が例えば外来語を日本語に組み合わせて使っているようなことを鳥たちがしている…。ただの擬人化ではないと、人間の共通点を知りました。

さらに、

②鳥と人間が会話をする場合がある。

かなり衝撃的でした。引用して紹介します。

鈴木 …モザンビークに住むノドグロミツオシエという鳥なんですが、彼らは人とコミュニケーションをとりながら、エサであるハチの巣を手に入れるんです。
(中略)
山極 しかし、どうやって?
鈴木 声です。ミツオシエは、ハチの巣を見つけると人間のところまでやってきて「ギギギギギ」と鳴いて、ハチの巣まで誘導するんですね。すると人は焚火をして巣を手に入れて、そのおこぼれをミツオシエにあげるんです。人間の側も、ミオシエを見失ってしまったら「ブルルルル」という独特の声を出してミツオシエを呼びます。人間と鳥で、双方向にコミュニケーションができているんですね。(p.098)

③鳥の言葉の研究はこれから

鈴木さんは、絵本『にんじゃシジュウカラのすけ』のあとがきを、監修者としてこう結んでいます。

小鳥たちのすごいところは、別の種類の鳥の音葉もきちんと理解できること。鳴き声のひびきは違っていても、お互いに言葉を学びあい、協力して暮らしています。歩し前まで、鳥に言葉があるなんで誰も信じていませんでした。小鳥の忍者が見つかる日もそう遠くないかもしれません。

はじめの問に答えを出すと「喋れる」でした。

それどころか、鳥たちは、人間ともしゃべれる可能性がある。というか、実際に喋っている文化がある。僕たちが「異文化交流」と呼んで習得を目指す外国語は、人間の言葉だけである必要はないのかもしれない。鳥や動物の側にしっかり向き合えば、いくつかの言葉を覚えて、モザンビークの人たちのように、当たり前に共同作業ができるかもしれない。
そのように考えさせられる読書経験でした。絵本だけを読みになった方は、ぜひ今回ご紹介した書籍も読んでみて欲しいです。

(いぬまき)R6.2.6


ドードー鳥の本を読んだあと、絶滅種や絶滅危惧種の動物たちについて調べたり考えたりしていた。

そのうち、はじめから想像の中にしかいなかった生き物への興味が湧いてきた。 いろいろ読んでいるうちに、 『予言獣大図鑑』(文学通信、2013年12月)という書物が出版された。日本の予言獣に絞って編まれた図鑑で、瓦版などの文献から多くの情報を得ている。絵も素朴でよい。

この本の第二部で、次のように分類がなされている。
第一「神社姫・姫魚」系
第二「件(クダン)」系
第三「くたべ」系
第四「奇鳥」系
第五「双頭烏」系
第六「異鳥」系
第七「アマビコ」系
第八「山童」系
第九「蜑人」系
第十「きたいの童子」系
第十一「豊後国に出で候もの」系
第十二 その他

怪談で有名な「くだん」や、コロナ禍を予言したと話題になった「アマビコ」など、有名どころを拾いながらも、項目が他の妖怪や幻獣図鑑と大分違う。

ドードー鳥を出発とした僕にとっては、3つも「鳥」のカテゴリがあるのが嬉しい。星野哲朗が追ったアメリカ大陸のワタリガラスの神話然り、人は、なぜか鳥たちに神秘的なものを感じてきたのかもしれない。

出典をいくつか読み、「伊勢の奇鳥」に興味を惹かれた。『(天保見聞)名府太平鑑』

http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001802

で、原書がみられる(該当は91-92頁)。

まず、インパクトあるのは見た目。様々な鳥の継ぎ合わせである。鶏をベースに、ひよこのままにも見える頭部に孔雀の尾羽がついている。金色らしい。飛べない鳥の集合体みたいな趣である。

次に、物語。 天保3年4月1日の鶏の刻頃、伊勢大神宮の社殿の屋根に現れ「りんりん」と鳴いた。 その夜、神主らの夢にも現れ「今年の9月12日の夜に東南のに悪星が出る。この星を見た者は直ちに震え上がって死ぬ。この災難を逃れたければ、自分の姿を描いて貼り、毎月12日に酒を供えよ。我は大神宮の使いなり。」といい飛び去ったという。(見るからに飛べなそうなのに飛べるらしい。)

出典は、民衆から蒐集した話のようだ。天保といえば、大雨をきっかけとし、大塩平八郎の乱につながる天保の飢饉が思い浮かぶ。 彗星の記録は見つからなかったが、日本が苦難の中にあった時であることは確かだろう。苦難の時に、神秘的な生き物や物語に理由や救いを求めたりするのは、いつの時代も変わらないのであろう。

それを伝える予言獣が、何故か鳥であり、そしてドードー同様、飛べない(感じの)鳥であるあたりが何か引っかかる(奇鳥は飛んだけど)。 もしかしたら、僕たちは、神秘的である鳥に憧れながら、一方で「飛べない」あたりに、人と同じ目線でいてくれる魅力を感じているのかもしれない。

川端裕人さんの新刊『ドードー鳥と孤独鳥』を読書会で読みました。
主人公・タマキ(科学ライター)と、音信不通だった幼馴染・ケイナ(研究者)が、表題の絶滅した鳥に人生を賭ける物語です。
科学論文や生物学の【ホンモノ】の理論を下敷きに、近い未来に起きるかもしれない発見や事件を【フィクション】として描いています。
生物学の素養がない私は、「絶滅種をめぐるSF」、「成長小説」として胸躍らせながら読みました。
教育現場ではSDGsが標榜されつづけ、絶滅危惧種はまだしも、絶滅種については触れられにくい感じです。が、人間の愚行で地球を去った頭の大きい飛べないハトは、『アリス』を持ち出すまでもなく、不思議と私たちを惹きつけます。それは、デフォルメされた外見からでしょうか。それとも、絶滅種に対するノスタルジーのようなものがそうさせるのでしょうか。
生き物との暮らし方について、生命倫理について、基礎科学・虚学について考えさせられる一編です。
筆者は、二年前に自身のドードー鳥をめぐる探求をまとめたノンフィクション『ドードーをめぐる堂々巡り』を出版しており、これと比べることでどこがフィクションなのか?筆者の伝えたいことが見えるのではないかと思います。

以下、多分にネタバレを含みますが、二冊を比べたり、調べたりしながら、少し細かく見てみます。

【ホンモノ】
・論文「ドードーが日本に来ていた」The dodo, the deer and a 1647 voyage to Japan,Ria Winters, Julian P Hume,Historical Biology 27 (2), 258-264, 2015(『堂々巡り』第一章)
・ドードー鳥の全ゲノム解析(カリフォルニア大学 2016)

【フィクション】
・百々谷、つくも谷(作中では南房総。モデルは三浦半島とされる)
・日本での孤独鳥頭部の骨の発見
・孤独鳥のゲノム解析
・ケイナのキメラ個体育成
・スピーシーズ・リバイバル財団の活動と活動再開

『ドードー鳥と孤独鳥』の物語は、幼いタマキとケイナが百々谷で育つシーンに始まり、社会に出た二人が絶滅種を縁に再開し、「日本の孤独鳥頭部の発見」と、それを用いたケイナの孤独鳥の脱絶滅(キメラ個体の生育)へと収斂し、二人が百々谷で暮らす場面で幕を閉じます。このある種の「行きて帰りし物語」(二人の成長物語)の構造の中に、孤独鳥=ドードー鳥発見のロマンを描くことに成功しているように感じます。
『ドードーをめぐる堂々めぐり』で書かれている筆者の夢「日本のドードー発見」。それが、双方が絡み合ったクライマックスで、頭部が発見されるという展開により、筆者の「夢」が美しく表現され、我々にも共感を生みます。
一方で、シカゴ郊外での研究者の議論や、その後のタマキとケイナとの対話、クライマックスでのタマキとケイナとのやりとりなどに、近年の生物学的な知識や生命倫理的な論点が含まれており、「科学読み物」としても成立し、厚みとなっています。

ぜひ多くのYAに読んでもらいたい物語です。

ハンドルネーム 「いぬまき」(高校教員)

そこは、どこかの空き地なのだ。雑草が適当にのび、地肌は見えない。別に囲いもさくもないから、空き地のすぐわきは道路で、その道路はアスファルトで舗装してある。そして、道路には、電柱が一本たっており、その電柱にはセミがとまっている。もちろん、セミはうるさいほどに鳴いている。これは何の風景なのだろうか。
1987年の東大入試に採られて以来、我々の業界で有名になった新井素子の「夏の終わり」の一節である。新井は、現実の記憶ではないと話を続ける。
これとは全く違うのだけれども、毎年今頃の季節になると、肌寒いような切なさとともに頭に浮かぶ風景がある。
薄暗い時間帯。細長い沼地が見える。後ろには雑木林が広がり、落ち葉を踏みながら分け入って少し歩くと、正午過ぎの陽だまりのような広場に、いぬまきの大樹が3本そびえ立っている。
これはどうも、6年間通った通学路の断片と、何度も読み返したシートン動物記やファーブル昆虫記の描写が混じった風景であるらしい。私にとっては、ここに読書によって作られたイメージが含まれるのが大事である。
特にここ4、5年、子供たちが紹介しあう本を見ると、読み心地は良いが、心にイメージを残すほどの描写を備えたものが減ってきているように思う。古典的な名作を読めと推薦図書を並べる気もないが、心に絡みつくほどのイメージを喚起するようなテキストを、もっと子供たちの読書生活の中に入れられるようにしたい。
そんな気持ちで、自分が読み、紹介した本や、生徒とのことについて、吶々と書いていければと思います。
この出発点を覚えていられるように、ハンドルネームは「いぬまき」にします。よろしくお願いします。

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